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Question11:
大手塾と鈴木国語に通うのは体力的にきついのですが…?


●Answer 

私は、やり方がよくわからない国語のみ塾に通い、あとは過去問やネットを参考に自力で勉強する方が効率が良いのではないかと思いますが、特に大手塾との併用を否定するものではありません。 大手塾と鈴木国語に通う場合に、鈴木国語に通いきれないと言ってやめる生徒がいますが、通いきる生徒もいます。


両者の違いは何なのか、ということを改めて考えてみました。


一般にはすぐに「体力の違いだ」というような答えが返ってくると思われます。



しかし、「貧血」あるいは「低血圧」を思わせるような、どうみても「体力のない」女の子でも、ちゃんと鈴木国語に通いきり、国語も最後に大きな伸びを見せて桜蔭に合格した例もあります。この例からすると、単なる「体力」では説明できないものがあるように思います。


そもそも「体力」自体よく考えてみると内容の不明確な言葉です。

たとえば、柔道やレスリングや陸上短距離や水泳の選手は、たくさん食べて筋力も強く「体力」があると言えるでしょうが、マラソンの選手は体がボロボロになる一歩手前くらいの肉体で42.195キロを完走します。マラソン選手は「体力」はないというべきかもしれませんが、他の体力競技の選手はマラソンではマラソン選手に勝てません。

「体力」という言葉は世の中でなんとなく使われている内容の曖昧な言葉ではないのかと思われます。ちょうど血液型で人の性格を判断するのに近いような言葉ではないかと思います。


私は、勉強への対応力は、勉強の基本技術の問題ではないかと思います。


たとえば、小さい時から漢字の練習をしてきて、その習慣がついており、漢字に慣れている生徒にとっては、漢字をマスターすることはたやすいことです。「憂鬱」の「鬱」のような字にしても、いくつかのパート(「木」「缶」「木」「冖」「※」(←これは代用)「⊔」「匕」「彡」)に分けて覚え、それを再構成することは容易であり、すぐに覚えられるわけです。


これに対して、漢字練習の習慣がついていない生徒にとっては、外国人が漢字を習うのに近いものがあり、意味不明の記号を組み合わせるように感じられるのではないかということです。


前者はストレスなく、漢字をどんどんマスターできますが、後者にとっては漢字をマスターするためには大変なストレスに打ち勝たなければなりません。


それはちょうど、譜面の通りにピアノを弾ける人と全くのド素人の違いにも似ています。後者は鍵盤を抑えるだけでもかなりのストレスを感じます。


そして、この漢字を練習することにストレスを感じず、漢字を難なく覚えられるという基本的な技術(能力)が勉強にとって決定的な意味を持つのではないかということです。


こういう生徒は、読解にもとにかく取り組むという態度を持っています。解説もよく聞いてメモを取るということが自然にできます。やり直しも、涼しい顔をして短時間で正確にやり直します。一言でいえば、作業をいとわない、と言えるでしょう。


漢字練習という単純作業(というほど単純かどうかはさておき)をこなすという基本的能力が、勉強の推進力につながり、勉強の推進力がその読解・記述・選択の勉強を通して高度な思考力のトレーニングをもしてしまう、ということになるのだと思います。


こういう生徒は、大手塾と鈴木国語に通っても特に問題はなくこなしてしまいます。6年秋からの過去問指導や祝日特訓も出てきますし、講習などにもそれなりに出席します。


ところが、この単純作業能力が不十分な生徒は、そういうことが大きな負担になります。そこで、鈴木国語をやめれば負担が軽くなるように思ってやめます。しかし、やめて大手一本にしても、この能力を鍛えるわけではないので、結局伸びないで百人なみの結果になってしまうわけです。


ちなみに、秋からの大手塾の志望校対策に参加しなければならないというのも、鈴木国語をやめる理由とされます。志望校対策が本当に対策となっていればよいのですが、国語の過去問をむやみやたらにやって答え合わせだけしても、何の対策にもならない、ということはやめる皆さんはほとんど考えていないように思います。


話をもとに戻しましょう。この単純作業能力は、特に小さいうち(小4くらいまで)に身につけるとよいと思うのです(その意味で公文が良い)が、小さいうちから大手塾に入り塾らしいことをするものですから、この能力をしっかりと身につけないまま小6になり、受験を迎えてしましまうということになります。


では、小6になれば身につけられないかというと、そんなことはないと思います。トレーニングをすれば、小さい子より早く身につけることができるかもしれません。しかし、トレーニングをしないのです。難しい問題に目を奪われて、あるいは、宿題に追われて、あるいは、志望校対策とやらに気を取られて、たった10分のトレーニングをしないのです。自分向けにカスタマイズした勉強をしないで、自分以外のものに合わせようとするから、たった10分のトレーニングができないのです。


この基礎トレーニングの不足という問題は、たとえば、塾のトップのクラスの生徒と準トップのクラスの生徒との間の間の差ともなって表れます。両クラスのメンバーの大半は(多少の入れ替えはあっても)どちらかに偏っているはずです。準トップクラスの生徒はトップのクラスの生徒にはなかなか勝てません。


準トップのクラスの生徒がトップのクラスの生徒に決定的に勝つには、同じことをしないで、一旦自分の勉強の範囲を制限して、自分の勉強の内容をより徹底的なものにすべきです。つまり、たとえば、a・b・c・d・eという五つの項目をやらなければならないと思わないで、あえてa・b・cに限って、その代わり、a・b・cについては誰もかなわないほどの正確さとスピードで処理できるように徹底的にトレーニングするのです。これを繰り返していくと、残したd・eも難なくできるようになります。徹底的トレーニングを通して不足していた基礎技術を高度化することになるからです。そして、それに支えられて応用発展力も磨かれるからです。


これは、底辺のクラスあるいは中位のクラスから這い上がろうとする生徒にとっても、もちろん、大切なことです。


しかし、多くの人は自分独自のものを恐れます。できる限り人に合わせようとします。自分の人生をどうするかは自分で決めるしかなく、それが自由であり個性であるのに、それを恐れ嫌います。


これは私にはどうすることもできません。



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