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よくある質問
Q3:作文を書けば記述力がつくのですか?


●A: ただ作文を書いても、記述力はつきません。論理的に説明する作文の練習をしなければ記述力はつきません。

作文には、大別して二つがあると思ってください。一つは、「いつ・どこで・何が・どうした」という事実を中心とする作文。もう一つは、ある問題について答えを導くことを目的とし、そのための論理過程を示す作文。前者はいわば散文的作文であり、後者はいわば説明文的作文です。

記述力というのは、論理的な説明のことですから、後者の説明的な作文の練習が必要です。仮に自分は小説家になりたいという人がいたとしましょう。あるいは詩人になりたいという人がいたとしましょう。その人こそ、後者の説明文的な作文の勉強を徹底的にすべきでしょう。詩や小説を書く場合には、物事や人物の行動・気持ちの観察が必要ですが、この観察とはただ目に映るものを見ることではなく、論理の力で本質をスキャンすることだからです。また、小説や詩が、あるテーマを描き出すように構成するのも論理力だからです。自分の使う表現技法が適切・有効なものであるのかを判断するのも論理力だからです。もっと根本的な着想すら、その作家の全経験を総合し抽象化する論理の問題であると思われるからです。

では、そのような論理的な作文の力をつけるには何をすればよいのでしょうか。

@ まず、論理的な文章の書き写しをするのがよいでしょう。

A 次に、論理的な文章の要約をするのがよいでしょう。

B 第三に、論理的な文章の論旨を踏まえ、自分で具体例をあげて、筆者の論理を展開してみるとよいでしょう。

C 第四に、論理的な文章の論拠を踏まえた上で、これに反対する論理を展開してみるとよいでしょう。

これらは基本的にはすべて人まねですが、「学ぶ」とは「まねぶ」ことであり、人まねから出発するといえます。たとえば、ピアノなどを習うときに、初めから自分の思い通りに弾くなどということは出来るものではありません。まず先生の「まね」から入り、それを無数に積み重ねていくうちに、自分らしい演奏ができるようになるのでしょう。文章だってそれと同じで、でたらめを書くよりも、しっかりした文章を暗記するほどまねるところから出発した方が、確かな力をつけることになるのです。ですから、作文力のない人に「自由に書きましょう」などというのは、「でたらめを書きましょう」というのに等しいわけです。

ちなみに、よく若い人がホームページに自分の「詩」を発表していることがありますが、単なる「思い」を行分けして連ねても、残念ながら「詩」にはなりません。そんなような「気分」になっているだけのことです。

では、論理を鍛えると感情がなく冷たい人になるのでしょうか。情感豊かな文章は書けなくなるのでしょうか。論理(理性)と感情が競合するものであれば、この論は成り立ちますが、両者は本来領域をことにするのであって、どちらかが成り立てばどちらかが否定されるというような矛盾関係にはありません。ですから、たとえば、ファーブルの観察や実験は極めて論理的ですが、文章には独特の詩情や愛情が感じられるわけです。また、ナサの宇宙科学者故カール・セーガン博士は「コスモス」の中で「星屑が星について考える」と人間存在についての深い洞察を詩情豊かに述べていますが、宇宙論という論理が詩的であることすら示しているといえるでしょう。つまり、論理は冷たいなどというのは根拠のあるものではありません。逆に、感情ばかりの人というものがいるとすれば、その人とは、勉強・仕事・政治・経済などの論理が絡む話は一切出来ないことになります。その人は社会生活困難ということになるではないでしょうか。

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